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科学とアートの垣根を壊す21世紀の魔法使い【本の紹介003】『魔法の世紀』落合陽一

※ネタバレ注意

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 
【概要】
科学者でありメディア・アーティストである落合陽一氏による21世紀の科学とアートのあり方を考える一冊。
20世紀が〈映像の世紀〉だったとすると21世紀は〈魔法の世紀〉であると提唱する落合氏が20世紀のメディア・アート・テクノロジーの歴史を紐解きながら、テクノロジーの進化とともに変容せざるを得ない3者の関係性に対する新たな視点を投げかける。科学者であることとアーティストであるということがそれほど遠いものではないと語る落合氏が見据えるこれからのメディア・アート・テクノロジーの関係。バーチャル・リアリティーの時代の幕開けとともに読まれるべき必読書。

【こんな人にオススメ】
クリエイター/デザイナー/エンジニア/アーティスト/コンピュータ・テクノロジーに興味がある人/学生の人/研究者・科学者になりたい人

【感想】

落合陽一氏については、新刊『これからの世界をつくる仲間たちへ』が出たばかりですが、話の流れから、今回は、『魔法の世紀』を紹介したいと思います。

『「ない仕事」の作り方』ではみうらじゅん氏のサブカルチャー分野での多岐にわたる活躍とその背景にある仕事術を、『コミュニティ難民のススメ』ではアサダワタル氏を中心とした<周縁>でジャンルの垣根を壊す人たちを紹介しました。

本書の著者である落合陽一氏もまた、「科学」と「アート」の境界線を曖昧にする活動を行っている方のひとりです。

落合氏は、20世紀をテレビや映画を中心とした視覚文化が世の中を動かした<映像の世紀>としており、それに対して21世紀は、コンピュータを中心とした〈魔法の世紀〉になるだろうと予測しています。著者があえて、古風なあるいは非科学的な印象の「魔法」という言葉を使っているのは、テクノロジーの進化によってもたらされる未来は、科学なのか魔法なのかわからないような形のものになるだろうという問題意識があるからです。そして、それは今後、バーチャルリアリティなどの技術の進化を可能にするコンピュータの力が原動力になるだろうと。

コンピュータの歴史を参照しながら、今後、バーチャル・リアリティの文脈で注目されていくであろうアイバン・サザランドの業績を再発見し、紹介しているくだりもとても面白いのですが、(※著者も書いている通り、アイバン・サザランドはこれまでメディア論、コンピュータ・テクノロジー、情報理論で取り上げられてきたアラン・ケイやダグラス・エンゲルバードやクロード・シャノンのようにあまり注目されてこなかった人物だと思います)本書で一番、面白いのは、落合陽一氏のアーティストとしての活動と科学者・研究者としての活動が交わる際に生じる問題意識について描かれている点です。

現代アートに詳しい方やアートの歴史を学んだ方なら言わずもがなかと思いますが、現代アートの世界というのは、落合氏が本書で「文脈のアート」と呼ぶように過去のアートの歴史を参照しながら、現代的な問題意識をなげかけるところにアート自体の付加価値が見出されてきた歴史があります。

少し本書をはなれて、あまり現代アートのことを知らない方のために簡単に解説してみます。

お笑い芸人の永野さんのギャグで

ピカソより普通にラッセンが好き、ゴッホより普通にラッセンが好き」というネタがあります。

これは、アートを知らない人間が直感的に「美しい」と感じる「美」より、抽象化された絵画が評価されている現状に対することに対しての「実はそう思っているけど口に出せない」という庶民としての本音を表現したことが面白く、また、きわめて批評的なネタだと思いますが、西洋アートの歴史を紐解いていくと、単純に自然や人物を模倣していた絵画の時代からどんどん抽象化が進んでいったという歴史があります。

かつて、世界そのものをキャンバスに擬似的に記録・再現するということに価値が見出されていた時代が、「写真」の発明とともに、擬似的に再現すること自体の意味がどんどん失われていくんですね。もちろん、いまでもスーパーリアリズムなど、あえて現実を限りなく模倣するアートというのは存在しますが、西洋アート全体としては、模倣するのでなく、抽象化するなかで新たな「美意識」を発見していくのです。

ピカソゴッホの絵画が評価されるのは、単に模倣し記録するということとは異なり、抽象化することで、画家の自意識や世界の捉え方が表現物の中に表現されていると判断し、またそれが何かしらの感動を人に与えうると判断されたからですね。

さらに、時代が進み20世紀に入ると、そもそも、何が美してくて何が美しくないのか、アートとはそもそも何なのかが問われる時代になります。

その中で、ただの便器を美術館に展示したマルセル・デュシャンの『泉』やピアノの前で何も演奏せずに観客のざわめきを音楽として表現するジョン・ケージの『4分33秒』などの作品が生まれてきます。

こうなってくると、前後のアートの文脈をしらない人には、なにがなんだかさっぱりわからないですよね。

なんで、ただの便器がアートなんだ。なんで、なにも演奏しないのが音楽なんだという反応が出てきて当然です。

ところが、アートの歴史を知っている人からすると、これは、そもそもアートとは何なのか、音楽とは何なのかを問い直させる、きわめて現代批評的な作品であるという評価になるわけです。

こうなってくると、もう大喜利大会のようになってきます。今までの文脈を踏まえて今までなされていなかったこと、普通に生きる人が当たり前と思っているような常識に問いを投げかける作品が評価される結果、アートはどんどんわかりづらいものになってくるわけです。

これが20世紀の西洋アート・現代アートの歴史ですね。

村上隆さんが自分の作品と現代アートの鑑賞の仕方を書いた本が面白かったので、また改めて紹介したいと思います。

話を元に戻しますと、落合陽一氏はそういった「文脈」に依存するアートに対して、より直感的に、人間の五感を揺さぶるアートを「原理のアート」と呼びその可能性について言及しています。(これは、つまりラッセンの絵を見た時に、うわ、なんか綺麗!いいかも、と感じる庶民の素朴な感覚をベースにした作品ということですね。まあ、ラッセンというのは私がさっきの話の流れから言っているだけで、落合氏がイメージするのは、人間の視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚を麻痺させたりすることで、これまでの現実世界で感じたことのない感覚を与えるようなメディア・アートを指しているのですが)

これは、「文脈」のアートというのが、西洋のギャラリーなどのアートシーンからテレビや新聞、雑誌を通じて、世界に発信されてきたことを前提に成り立っていたことが、インターネットの登場とともに成立しなくなってきた状況とリンクするのではないかと書かれています。

そうした状況下で、バーチャル・リアリティを中心としたテクノロジーの発達が、再度、「怖い」とか「楽しい」とか「気持ちいい」といった人間の感覚に直接訴えかける「原理のアート」の再建につながっていくのではないかと。

そして、面白いのは、そういった「原理のアート」を考える上では、その感覚を伝えるための新たな「装置の発明」が必要であり、それが、科学者でありながらアーティストであるという落合氏の活動につながっていきます。

つまり、これまでにない方法で人間の直感に訴えかけるためにはそのための「装置」が必要とされるが、そもそも、そういった装置は世の中に存在しないので、その装置を発明する、発明し新たな感覚を与えること自体がアーティストの役割となるというわけです。

科学者もアーティストも「世界とは何か」、「人間とは何か」という哲学的な問題意識を底に持ちながら活動している人が大半だと思いますが、一見、異なるように見える科学者としての活動とアーティストとしての活動がここでリンクし、非常にスリリングに新たなアーティスト像が提示されています。

そういう意味では、いま、まさにシリコンバレーで初めての個展を開催し世界中で注目されているチームラボの活動などはまさにこういった文脈から期待されているのでしょうね。(彼らはさらにそれを企業活動の中で実践しているということと、チームでクリエイティブを行っているということで3重にユニークですね)

そして、本書のさらにユニークな点は、落合陽一氏がさらに突っ込んだ問題意識を投げかけているところです。

人間の五感を刺激することによる「原理のアート」も結局、「人間」という制限された感覚器官を持つ動物の世界にとどまっているじゃないかと。氏はこれを「人間中心主義」と呼び、人間の感覚を超えた世界でアートが可能かどうかを実践の中で探ろうとしています。

もう、こうなってくると、SFの世界のようなものです。

人間の感覚を超越する表現物があったとしても人間は感覚できないわけですから、人間を超える人工知能にしか理解できないアートは存在しうるのか

というSFのような話になってきます。

SFのような話ですが、バーチャル・リアリティ時代の幕開けとされる2016年から急速な勢いで、こういった問いが身近になる世界が訪れようとしているのかもしれませんね。

学校の授業でも「理科」と「美術」は別のものとして扱われていますが、もうそんな時代じゃないのかもしれません。

新進気鋭、まだ28歳の落合陽一氏が切り開いた世界を後続の若い人たちが加速していくとさらにおもしろい世界がどんどん広がっていくと思います。

オススメ。